「脚気」
今ではほとんど聞くことのないワードだ
自分も専門学校に入って医療について学んで初めて知った
しかしながらかつては日本で国民病と呼ばれるほど流行した病気である
今回脚気について取り上げるきっかけとなったのがこの1冊
すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険 [ 山本 健人 ] 価格:1,870円 |
この本の中に脚気についての歴史や概要が書かれていた
実に興味深い内容だったので
今回は脚気について歴史から紐解いていく
脚気とはどんな病気?
まず脚気とはどのような病気なのか
ビタミンB1の欠乏が原因となり全身のだるさや倦怠感
重度になると神経障害による手足の麻痺や
心臓への障害を引き起こし
死亡することもあ非常に怖い疾患だ
日本では江戸時代に広まり明治時代以降は年間1~3万人が亡くなったと言われている
なぜここまで脚気が広がっていったのか
そしてどのようにして脚気の患者が減少していったのか
そこには多くの人たちの苦労と功績があった
歴史から紐解いていく
脚気の歴史
先ほども述べたように
脚気は江戸時代から広がり始めた
それまでは脚気という病気は広がってなかったのにも関わらず
なぜ江戸時代に入ったタイミングで急激に広がったのか
そこには食生活の変化があった
江戸時代と脚気
江戸時代に入ったタイミングで日本人の食生活で
大きな変化があった
それは玄米に代わって白米が普及したことだ
米の胚芽には多くのビタミンB1が含まれている
そのため玄米を食べれば十分なビタミンB1を摂取できていた
しかし白米の普及により胚芽は精米されることで取り除かれてしまうため
白米によってビタミンB1が摂取できない状態となった
それなら他の食事で補えば良いのでは?
そう考えるが当時はビタミンという概念がなかったこと
副食が乏しかったこと
これによりビタミンB1が欠乏しやすい状況下が作り上げられていたのだ
その結果脚気は急速に広まった
原因不明の奇病
ビタミンという概念がなかったことはもちろん
当時は栄養素の不足や過剰によって病気を引き起こすという概念もなかった。
今の常識は昔の非常識だ
多くの犠牲や苦労、研究の上に発見がある
そんなことを思い知らされた
そういった背景もあり脚気は原因不明の奇病として恐れられた。
原因不明のまま時代は江戸から明治へと移り変わる。
明治時代も脚気の流行は拡大する一方
原因も分からないままだ
そういった中でも
同じ兵食を食べる軍隊では戦傷者よりも脚気患者の方が多く出るという事態さえ起った。
当時の兵食は白米を1日6合食べていた
たくさん食べれば元気でいられる
それ以上深い知識がなかったが故に起こってしまったことだ
しかしながらこのまま放置しているわけにもいかない
脚気の原因を突き止めようとした人物が2人現れた
脚気に立ち向かった2人の人物
原因を突き止めようとした人物が2人
海軍軍医の高木兼寛と日本を代表する文筆家としても有名な
森林太郎だ
この2人について深堀していく
高木兼寛
1人目の人物は高木兼寛
明治8年から13年の間イギリス留学で医科学を学んだ高木は
帰国後に脚気の原因究明に挑んだ
彼は留学時に目にしたイギリスの海軍をヒントにした
イギリスの海軍には脚気がなかったことに注目した
白米中心の日本に対して
イギリスはパンや肉などタンパク質の多い食事だった
この食生活の違いが解決のカギになると考えた
その一方で脚気は菌による細菌感染症である
という考えにこだわった人物がいる
それが次に紹介する森林太郎だ
森林太郎
誰だよ?
そう思った方も多いかもしれない
彼のまたの名を森鴎外という
日本を代表する文筆家森鴎外は
森林太郎という名で医師としても活躍していた
彼は東京大学を卒業後ドイツに留学し最先端の医学を学んだ
当時の医学は理論を優先するドイツ医学を主流としていた
そのため高木らの経験則に基づく治療に強く対抗した
陸軍軍医でもあった森の考えは
脚気は脚気菌という菌による細菌感染によって引き起こされる
というものだった
対照的となった陸軍と海軍
森林太郎の下
細菌説に固執し日本食にこだわり続けた陸軍
高木兼寛の指導の下
イギリスの洋食をヒントに日本食からタンパク質を増やした食事改革を行った海軍
果たしてどちらの考えが正しかったのか
その結果は大きな差となって現れた
なんと陸軍では
日清戦争で4,000人以上、日露戦争で27,000人以上の兵士が脚気により亡くなった
一方で食事改革を行った海軍の脚気による死者は
日清戦争でゼロ、日露戦争では3人
にとどめることが出来た
払拭しきれなかった疑問点
しかしながら海軍は日露戦争の頃から脚気を他の病気に変えて患者数を減らしていることや
死亡することはなくとも入院率は50~70%と高いことが指摘されており
脚気の原因がタンパク質だと言い切れるほどの根拠がなく
学問上の疑問点は解消できないままであった
原因究明とビタミン欠乏説の確定
日露戦争後の明治41年
陸軍で脚気により多くの死者を出してしまったことで
多くの批判を受けた森林太郎
本当の原因を突き止めるべく彼は臨時脚気調査会を設置し
脚気の原因究明をさらに進めていった
ここから脚気の謎が少しずつ解けていく
まず明治44年
化学者の鈴木梅太郎が脚気に効く物質を米ぬかから抽出することに成功
これをオリザニンと名付けた
オリザニンはヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し
後のビタミンの概念をはっきり提示していた。
ただし、その論文がドイツ語に翻訳されたとき、「これは新しい栄養素である」
という一行が訳出されなかったため、オリザニンは世界的な注目を受けることがなく、
第一発見者としては日本国内で知られるのみとなってしまい
世界的には広まらなかった
その翌年
時代は変わって大正元年
ポーランドの化学者
フランクによりビタミン欠乏症という概念が提唱され
世界の医界でこれが定着した
大正12年
調査総会では脚気の原因がビタミンB欠乏なのか
ビタミンBにある付随因子が加わったものなのかに絞られていた
この研究に調査会の予算2万円のうち8千円が使われたという
このような取り組みが実を結び
大正14年
脚気の原因がビタミンB1欠乏症であることが完全に確定した
まとめ
脚気という1つの病気をとっても
解明までに多くの犠牲や調査、研究がなされ
とてつもなく長い時間を要した
医学の進歩は我々が思っているよりも地道なステップを踏んでいる
脚気の歴史を通してそう感じた
専門学校時代、ビタミンB1欠乏によって脚気が引き起こされる
としか習わなかったが深堀りしたことで
新たな発見や気づきが多くあった
何気ないものも深堀りすると面白味が出てくるかもしれない
そういったことを今後もやっていってみようと思う
今回は以上
最後までお読みいただきありがとうございました!
コメント
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